2005年06月02日

極私的逐条点検:憲法第十九条〜暁と黄昏(prerelease)

第三章 国民の権利及び義務
第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 思想というのは個人の考えに基づくから、学問と違って、偏りがある。 思想というのは何らかの形であれ偏向しているものである。人が考える葦であるならば、人は何事かを考え、体系化して、それを形にする。 それが思想だ。国家が人の考えることにまで干渉したら、人は考える葦であることをやめるだろう。自由な発想によってではなく、 誰かが考えたこと(それはたいてい国家公認の思想だ)をただただ受け入れるだけの受動的な存在になってしまう。 人が自由にものを考えることができない社会や国家は何を生み出すだろうか。たぶん何も生み出さない。人が考えることをやめたとき、 人は自由を失う。

 良心は人間の精神、人格の核心である。それは善悪を感じる心の働きである。だから、良心が侵されるとき、 人はその心の働きを失い、 正しいことがわからなくなる。 正しくないことは良心に基づいて拒否できるように保障されていなければならない。今後、裁判員制度が実施されれば、 人はその良心が試されることになる。良心を侵犯されることなく裁判に関われるようにしなければならない。 もし国家が良心を侵すようなことになれば、裁判の公正さは保たれなくなる。裁くということはそれだけ重い。 良心は人間にとって最後の砦である。

 思想は処罰されないし、されるべきではないが、行為は処罰される可能性がある。思想と行為の接続性はどこにあるか? それは良心によって正しく導かれるだろうか?

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2005年05月18日

極私的逐条点検:憲法第十八条〜私は誰のもの?

第三章 国民の権利及び義務
第十八条  何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、 その意に反する苦役に服させられない。

この条項は人身の自由に関わる。自分の身体の扱いについてはとりあえずは自身に決定権があるだろう。 自分ではない誰かに強制された状態に置かれないことをこの条項は保証している。監禁、誘拐、脅迫、暴行、強制労働など、 そういうことに繋がる行為は法律で禁止されている。借金返済のための強制労働もその意に反する苦役になる。ただし国際人権法では、 陪審制や徴兵制はその意に反する苦役に当たらないとされている。

最近国際的に注目されている人身売買(人身取引)はこの条項の本質に関わる。わが国には人身売買罪がないため、現在検討中である。 人身売買禁止条約があってもそううまくいかないのだろう。。 国際組織犯罪防止条約やアメリカ国務省のレポートなどを受けてのことである (うまくクレイムメイキングされているように思わないでもない。)。 騙されて連れて来られた外国人女性が売春をさせられているということである。臓器取引の問題もある。 国内では人身取引は処罰すべきであるし、国際的監視が必要だろう。といっても対策がとられると、たいていの事象は地下化したり、 巧妙化する。また深刻な事例が扱われないこともよくある。お茶を濁した程度のことしか行われないこともある。 たぶん人身取引も例外ではないだろう。もともと人身取引は地下だけど。

こういった事態から救済するための法律として、人身保護法がある。あまり使われたことのない法律である。 最近では民主党が児童虐待関係で使う案を出していた。もっと使われていい法律だと私は思うが、 濫用されては困るというのが大勢の意見だろう。

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2005年05月16日

極私的逐条点検:憲法第十七条〜責任とってよ

第三章 国民の権利及び義務
第十七条  何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、 その賠償を求めることができる。

戦前のことだと判決では、”国家無答責の法理”を持ち出して免責していることが多い。 成文法上の法的根拠はよくわからないが、慣習上(判例上?) そういうことになるらしい。昔の国家は超越的存在だったのだろう。 戦前は国家賠償を規定する法律がなかったのである(だから、 国家賠償法の附則の6を根拠に国家無答責が成立するらしい)。 国際的に見ても、国家賠償が定式化されたのは戦後のようである 。現在では、 不法行為があれば、損害賠償を求めることができるし、裁判で認定されれば賠償されるだろう。 法律上は泣き寝入りせずに済む世の中になったわけである。

公務員の権力行使、あるいは権限行使は、法定手続きに基づいて為されるのが通常なので、不法行為の立証は難しいように思う。 不作為を問われた薬害HIV事件の厚生省ルートの刑事訴訟はあまり芳しくなかった。桶川ストーカー事件の国賠訴訟はもっと無残である。 立法行為に関することだとさらに難しいだろう。ハンセン病の国賠訴訟はかなり苦労したようである。国賠訴訟では被害を受け、 不法行為の疑いがあっても、勝訴するというわけではなさそうだ。被害救済のうまい仕組みはないものか。 請願の段階で救済措置が取られればよいのだが。

ここで言う法律はたぶん国家賠償法である。短いので前文書き出す。(附則の6はなぜか法令データ提供システムには掲載されていない。 政府は裁判で附則の6に基づいて主張しているのに。法令データ提供システムは、 総務省行政管理局が官報を基にデータ整備していて、官報で掲載された内容と異なる場合は、 官報が優先するそうである。私は官報を読んだことがないので、検証はできない。)

国家賠償法 (昭和二十二年十月二十七日法律第百二十五号)

第一条  国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、 その職務を行うについて、 故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。 ○2  前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があつたときは、国又は公共団体は、 その公務員に対して求償権を有する。

第二条  道路、 河川その他の公の営造物の設置又は管理に瑕疵があつたために他人に損害を生じたときは、国又は公共団体は、 これを賠償する責に任ずる。 ○2  前項の場合において、他に損害の原因について責に任ずべき者があるときは、 国又は公共団体は、 これに対して求償権を有する。

第三条  前二条の規定によつて国又は公共団体が損害を賠償する責に任ずる場合において、 公務員の選任若しくは監督又は公の営造物の設置若しくは管理に当る者と公務員の俸給、 給与その他の費用又は公の営造物の設置若しくは管理の費用を負担する者とが異なるときは、費用を負担する者もまた、 その損害を賠償する責に任ずる。 ○2  前項の場合において、損害を賠償した者は、 内部関係でその損害を賠償する責任ある者に対して求償権を有する。

第四条  国又は公共団体の損害賠償の責任については、 前三条の規定によるの外、民法 の規定による。

第五条  国又は公共団体の損害賠償の責任について民法 以外の他の法律に別段の定があるときは、その定めるところによる。

第六条  この法律は、外国人が被害者である場合には、 相互の保証があるときに限り、これを適用する。    

附 則 抄

1 この法律は、公布の日から、これを施行する。
[2 公証人法の一部改正]
[3 戸籍法の一部改正]
[4 不動産登記法の一部改正]
[5 民事訴訟法の一部改正]
6 この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。
損害の原因が他の者にある場合は、国や公共団体がその者に損害請求するのはもっともな話といえばもっともか。 個人責任をどこまで追及できるのかわからないが。行為だけでなく、道路のなどの管理ミスでも損害を蒙った場合は賠償請求できる。 たとえば こういう事例 。道路や河川などの安全管理の責任が国にあるのは当然だろう。 個人のレベルでできることには限界がある。詳しい規定は民法(第三編第五章) によるのももっともな話である。 ひとつの法律に拠るのが合理的である。外国人が被害者の場合の”相互の保証”というのは、 その国でも国家賠償を法的に規定しているかということだろう。法による平等の保護を考えると、この制限はありか、 と思うが法律上は仕方がない。 加害者の場合には公訴されるのに、被害者の場合は国籍を関係付けるのはどうだろう。

この条項では”不法行為”としているので、逮捕された後、間違いだとわかって(裁判前に)釈放されても、 不法行為を立証しないと賠償は得られないことになる。逮捕は法定手続きに基づいて行われるのが通常なので、違法性の立証は難しいと思う。 たぶん警察は公式に謝罪する必要はないと思う。ただし誤認逮捕の場合は謝罪しているようである。 令状が出されたことの違法性を立証するのも難しいように思う。間違いがわかった場合の名誉回復がスムーズに行われればよいのであるが、 これだけメディアが発達しても難しいように感じる。こちらの救済措置もうまい仕組みがないものか。人の噂も七十五日、 で済ませるわけにはいかないだろう。


詳しくはこことかここを読んで、と逃げておく。

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2005年05月15日

極私的逐条点検:憲法第十六条〜クレイム申し立て

第三章 国民の権利及び義務
第十六条  何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

私は請願をしたことはない。聞くところによると手続きとかが面倒らしい。よく見かける署名集めと言うものも請願になるのだろうか?そう言えばあまり署名もしたことがない。請願は基本的に請願法に基づいて行うものらしい。たぶん行政に対して行う場合の規定だろう。短いので全文書き出す。

請願法
(昭和二十二年三月十三日法律第十三号)

第一条  請願については、別に法律の定める場合を除いては、この法律の定めるところによる。
第二条  請願は、請願者の氏名(法人の場合はその名称)及び住所(住所のない場合は居所)を記載し、文書でこれをしなければならない。
第三条  請願書は、請願の事項を所管する官公署にこれを提出しなければならない。天皇に対する請願書は、内閣にこれを提出しなければならない。
○2 請願の事項を所管する官公署が明らかでないときは、請願書は、これを内閣に提出することができる。
第四条  請願書が誤つて前条に規定する官公署以外の官公署に提出されたときは、その官公署は、請願者に正当な官公署を指示し、又は正当な官公署にその請願書を送付しなければならない。
第五条  この法律に適合する請願は、官公署において、これを受理し誠実に処理しなければならない。
第六条  何人も、請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

   附 則

 この法律は、日本国憲法施行の日から、これを施行する。
憲法に差別待遇は受けないと書いてあるのに、ここにも書いてある。旧憲法下でどれほどの差別待遇があったのだろうか。天皇に対する請願というのはどういうことを指すのだろう。日本国憲法下では象徴的権能しか持たず、国事行為も内閣の助言と承認を必要とするのに。天皇に恩赦を求めたり、助命嘆願をするというようなことだろうか?実質的に無意味なように思えるけれど、形式的には必要と言うことか。あるいは我が日本においては、天皇陛下の恩徳を賜るということが最後の望みであるということだろうか。

大日本帝国にも請願の規定はあり、

第三十条
 日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得
となっている。”相当ノ敬礼ヲ守リ”なんて言われるとなんとなく請願しにくい。”平穏に”なら気が楽である。足尾銅山事件では、田中正造が代議士を辞めて天皇に直訴するまでに到っているが、そこまでこじれずに解決することが、今現在できるだろうか。秩父事件の場合でも、騒動が起こる前に請願を用いた合法運動が行われている。現代において請願が気楽にできるとしても、請願=クレイム申し立てにどれほどの意味を与えることができるだろうか。

請願法には、”誠実に処理しなければならない”とあるだけで、具体的な指示がない。裁量に任すということだろう。ハンセン病の療養所の入所者が、らい予防法の廃止を求めたが、相手にされず、廃止されるのに40年以上かかった。水俣病の患者の中には政府に認定されない人たちがいて、認定するよう求めている。被爆者にも認定されていない人がいる。同じような状態なのに、法の保護を受ける人と受けられない人が発生している。実際に請願(権)に効果があるのかわからなくなる。資源に限界があるから、国家にできることは限られるのかもしれないが、納得できるものではない。裁判を起こすことなく、請願権が実質的に機能するような制度が必要のように思う。

地方自治体の場合、住民自治があるからか、地方自治法で住民の直接請求(第五章)という形で権利化されている。地方レベルでは相当のことができるのである。最近ではオンブズマンが制度化されているところもあり、クレイム申し立ては制度上はしやすくなっている。機能するかは運用しだいである。
地方議会に請願する場合、地方自治法では

第七節 請願

第百二十四条  普通地方公共団体の議会に請願しようとする者は、議員の紹介により請願書を提出しなければならない。
第百二十五条  普通地方公共団体の議会は、その採択した請願で当該普通地方公共団体の長、教育委員会、選挙管理委員会、人事委員会若しくは公平委員会、公安委員会、労働委員会、農業委員会又は監査委員その他法律に基づく委員会又は委員において措置することが適当と認めるものは、これらの者にこれを送付し、かつ、その請願の処理の経過及び結果の報告を請求することができる
となっている。議員の紹介が必要なのは、行政に対する場合に比べてハードルが高いように見えるけれど、議会が請願を採択した場合に、ある程度拘束力が発生するようなので仕方がない。

国の場合、地方自治体のような仕組みはない。国民主権であるけれども、党派的に議員の解職を請求されてまずいだろう。国会に請願した場合は、国会法において

第九章 請願

第七十九条  各議院に請願しようとする者は、議員の紹介により請願書を提出しなければならない。
第八十条  請願は、各議院において委員会の審査を経た後これを議決する。
○2  委員会において、議院の会議に付するを要しないと決定した請願は、これを会議に付さない。但し、議員二十人以上の要求があるものは、これを会議に付さなければならない。
第八十一条  各議院において採択した請願で、内閣において措置するを適当と認めたものは、これを内閣に送付する。
○2  内閣は、前項の請願の処理の経過を毎年議院に報告しなければならない。
第八十二条  各議院は、各別に請願を受け互に干預しない。
と規定されている。議員の紹介が必要なのは地方議会に請願を行うときと同様である。議員二十人以上の要求で会議に付されるのなら、いかに賛同者を集められるかにかかってくる。

このように請願を行う方法はいろいろあるわけだが、現在のようにメディアが発達した世の中では、請願よりもマスメディアを使ったクレイム申し立ての方が効果があるように思う。テレビニュースショーや新聞、雑誌にそのような例を見ることが日々多い。クレイム申し立てにはレトリックが重要で、うまくやらなければバッシングされる場合がある。リスクがないわけではないが、公衆に広く知らしめるという意味では効果的だろう。その先の政策の実施や制度化へとつなげるのは大変な作業になるかもしれないが、もし本当に必要としているならば、やってみる価値はある。もちろんどのレトリックを用いるかを慎重に検討した上での話である。

戦争しているときに、戦争をやめてください、あるいは早く和平を結んでください、という請願ができるかどうかは定かではない。


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2005年05月12日

極私的逐条点検:憲法第十五条〜公務員になりたい!


第三章 国民の権利及び義務

第十五条  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

○2  すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

○3  公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

○4  すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、
その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。



第十五条は公務員についてと、民主主義国家の運営にとってもっとも基本である代表者の選び方について書いてある。
ここで言う公務員は一般的な意味のの公務員だけでなく、国会議員なども含まれるのだろう。公務員というと役人という感じがするので、
公職とかにしてくれればわかりやすいのにと思う。


国民主権だから、公務員に対する地位は国民に決定権があるのは当然である。もちろん、
恣意的になってはならないから法律に基づいて行われるだろう。


公務員は業務遂行において中立的でなければならない。仮に裁量権があったとしても、差別的な対応では困るのである。
同一条件同一処遇を守ってもらいたいものである。不正行為がはびこる社会はごめんである。


公務員の選挙は万人に開かれていなければならない。年齢以外の制限を設けては平等に反するのである。
(ある年齢に達していなければ、法的行為は無効となる。)昔は納税額によって有無が決まっていたが、
現在では納税しているかどうかは関係ない。”代表なければ課税なし”は民主主義の基本と言われているが、
課税されていなくても代表は選べる。今は国籍に基づいた平等な制度になっているのである。国民主権というのはそういうことである。
(この標語は直接民主制ではなく、間接民主主義、つまり代表民主制(代議制)を示すぐらいのものと私は解釈している。
大体において税金が国家に対する出資金なのであれば、最近はやりの株主資本主義というものに従えば、
金を一番多く出した者が一番偉いことになり(最終決定権がある)、基本的人権の平等原則に反するし、代表民主制にも反する。)


最近では投票率が低いので、投票を義務にしようという提案がある。確かに義務の国はあるが、選挙権は基本的人権の一部であり、
義務にするのはどうかと思う。権利は自由意志によって行使されるものであり、
そういう自由意志によって国民主権や国家意思が形成されているのである。強制されるような種類のものではない。


投票が秘密でなければ、仮に独裁的な人物が出現した場合にとても困る。
自分に投票しない人を処罰するような制度を作られては大変である。気楽に(政権党に対して)反対党に投票することもできなくなる。
代表者を自由に選択できる(という前提の)代表民主制にとってはとても大事な仕組みである。


ここにはなぜか国民が平等に公職に就く権利については規定していない。世界人権宣言(第二十一条)自由権規約(第二十五条) には規定されている。
また大日本帝国憲法は



第十九条

 日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得



と規定していた。今まで国民が平等に公職に就く権利は保障されてきたけれども、
この先どうなるかわからないので規定しておいたほうが安全のように思う。

あらゆる民族の民主主義者よ、連帯せよ?
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2005年05月01日

極私的逐条点検:憲法第十四条〜天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず?


第三章 国民の権利及び義務

第十四条  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、
経済的又は社会的関係において、差別されない。

○2  華族その他の貴族の制度は、これを認めない。

○3  栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、
又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。





矢部武の『人種差別の帝国』の
「Chapter4 白人と有色人種の命の値段」に”被害者が白人の場合は有色人種の場合よりも、
加害者が死刑になる割合が2倍も高くなる”というコロラド大学社会学部のマイケル・ラディット教授の調査結果が紹介されている。
この調査はフロリダ州とイリノイ州で行われた。この結果を受けて、イリノイ州知事は死刑囚を減刑にしたが、
フロリダ州知事はほとんど無視したそうである。公権力による差別は法律上は無くなっているのに、
実際に執行する段階ではいまだに存在しているようである。公民権法があるはずなのだが。公権力による差別があることを考えると、
私人間の差別はもっと深刻である可能性がある。




第十四条第一項は法の下の平等を規定している。アメリカ合衆国憲法にも同様の規定がある。



Fourteenth Amendment - Rights Guaranteed Privileges and
Immunities of Citizenship, Due Process and Equal
Protection



Section. 1. All persons born or naturalized in the United
States and subject to the jurisdiction thereof, are
citizens of the United States and of the State wherein they
reside. No State shall make or enforce any law which shall
abridge the privileges or immunities of citizens of the
United States; nor shall any State deprive any person of
life, liberty, or property, without due process of law;
nor deny to any person within its jurisdiction the equal
protection of the laws
.



アメリカ合衆国憲法では”州は法律による平等な保護を拒んではならない”とだけ規定されているが、日本国憲法では、
詳しく規定されている。アメリカの場合は1968年に公民権法が成立して詳しく規定された。日本の場合は個別法で対応している。


門地というのは辞書によると家柄らしい。家の格といった感じか。第二項は貴族制度を否定してる。
第一項で門地による差別を禁止しているのだから必要ないように思えるけれど、たぶん戦前に貴族制度があったためだろう。
仮にこの条項がなかったとしても、差別禁止のためにほとんど無効化されるだろう。第三項には栄典は特権を伴わないとし、
それは一代限りとしている。栄典を受けることにより家の格が上がると人々が解釈することはもうないとは思うが、
昔は違っていたからわざわざ特権否定の条項があるのだろう。それでも、
政治家の一部は勲章をもらって栄誉以上のものを示そうとすることがないわけでもない。家の格は結婚にも影響を与えたそうだから、
そういったことが前提をされているのだろう。今はたぶんそういうことはないだろうが、地方では微妙な働きをしなくもない。
憲法施行から60年を迎えようとしている現在、人々の意識の中から家の格というものは消えつつあるのだろう。


憲法はあくまで公権力を縛るものであり、私人間の効力はないとされている。
しかし国家には差別的取扱いが起こらないように下位法を制定する義務がある。あらゆる人は法律によって保護を受ける権利がある。




(家の格に関する意識は消えつつあるように見えるのに)部落差別はいまだに根強く残っているようである。そのためか、
部落解放同盟は差別禁止法を要求している。また人権侵害を救済する法律を求めている。しかし公権力を縛るのではなく、
私人間で作用する法律には反発が強い。差別の可罰性はそう簡単に成立するものではない。
犯罪の構成要件が成立しない場合は処罰ができない。それゆえ部落解放同盟としては、司法による処罰は無理なので、
行政処分による差別の規制を求めているのだろう。法治国家の法規範の観点から見ると、この試みはあまりうまくいくとは思えない。


性差別の解消は微妙なところである。わが国は1985年に女性差別撤廃条約を批准したので法律上は性差別は解消されている。
しかし部落差別と同様、私人間では解消されているとは言えない。企業は規制できても個人を規制するのは難しい。
いわゆるセクハラは違法行為になりうるが、それ以外はどうだろう。夫婦間の強姦罪は
「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律(いわゆるDV防止法)」によって成立するようになった。
法による保護を受けられるようになることはよいことである。しかし犯罪成立の構成要件を満たしていない場合はまだ難しい。
民事訴訟でいければ何とかなるだろうが。


人種差別は無くならない。日本国籍であるにもかかわらず、人種が違うということで差別が起こる。
たいていの権利は国籍に関係なく行使できる。しかし外国系日本人が差別されている現実を考えると、
外国人に対する差別は推して知るべしだろう。わが国は人種差別撤廃条約を1995年に批准している。
十年たってもあまり変わらないように見える。




あらゆる場面において差別をなくすために、国が何らかの措置をする必要はある。わが国は民主主義国家であるから独裁国家と違って、
公権力による差別は提起がしやすい。しかし私人間の場合はそういうわけでもない。私人間においては、処罰ができない場合でも、
不利益を被っている場合は調整が必要だろう。紛争調停機関が必要だと思う。ADR(裁判外紛争解決)
が差別に関してうまく機能してくれればよいのにと私は思う。

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2005年04月30日

極私的逐条点検:憲法第十三条〜国家はどこまで人権を保障してくれるのか?


第三章 国民の権利及び義務

第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。



基本的人権は個人が享受するものであるから、人が個人として尊重されるのは当たり前のことであり、基本て人権の原則である。
最近はこの条文が、個人主義の行き過ぎを招いたとして、修正を主張する人たちもいるが、
近代国家の法体系では個人が法的人格を保有することが前提とされているので、
この条文を修正することは個人の人格権の否定に繋がる恐れがある。人権が、
権力によって個人が恣意的に支配されるのを抑制するためにあるのは言うまでもない。


基本的人権は、身体、生命、自由、財産の不可侵を保証するものであるが、国政においてこれらが実現しなければ意味がない。
日本国憲法ではさらに幸福追求についても尊重されることが規定されている。実際に国政に反映されるとしても、
権利の衝突現象が発生するので、”公共の福祉に反しない限り”となっている。どこかで調整が必要になる。
幸福追求という権利はなんとなくあいまいな感じがする。幸福という言葉は人によってイメージすることが違うだろう。
功利主義的に最大多数の最大幸福としてしまうと、少数者の幸福がこぼれ落ちてしまう可能性もある。
人はどんな形であれ幸福というものを追い求めるものである。




実際問題として、幸福追求の権利とそのほかの権利が衝突するのは、最近では生命倫理学の領域における話題が多い。安楽死
(あるいは尊厳死)や胎児の利用、脳死と臓器移植などなど。安楽死(尊厳死)については、日本でも法制化を求める声がある。最近、
アメリカでも(大統領が州の権限を侵すようなことになり)ニュースになった。死の自己決定権という言葉も認知されつつある
(それに対して生の自己決定権については言及されることは少ない。see
ALS 不動の身体と息する機械
)。
胎児に人格権を認めるのは特殊な場合のみ(相続、認知)であるけれども、(日本よりアメリカで問題視される)中絶や胎児の組織の利用、
多胎の減数手術など微妙な感じがないわけでもない。脳死と臓器移植では、最近子どもの臓器提供を認める方向になっているし、
成人でも本人同意なしで提供できるにする動きもある。これらの問題は深く人格権にかかわりながらも、
クレイム申し立てがしやすい人たちの願いが尊重される傾向にある(その基準は微妙な差でしかないわけだが)。
人間の身体のサイバー化が今後認められることになるのか、禁止されることになるのかはわからないが、
この条項が焦点になることは間違いないだろう。

posted by mirrornowhere at 11:58| ラスベガス 晴れ| Comment(12) | TrackBack(0) | 逐条点検 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月29日

極私的逐条点検:憲法第十二条〜基本的人権の持続可能性と他者危害の原則


第三章 国民の権利及び義務


第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、
国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。



この条項も第十一条と同じく、基本的人権の原則について規定している。第十一条は権利の保有について書いてあったが、
第十二条の前半は権利の持続性について、後半は権利行使の境界線をどこに引くかということについて書いてある。


憲法は国家を規範づけるものであって、国民を規範づけるものではない。そう考えると前半の文章は余計なお世話のように思う。
国民あるいは個人が基本的人権を求めるのは自分たちのための政治、自分たちのための生活、
そして自分たちのための人生を実現するためである。そもそも為政者にいちいち干渉されたくないものでもある。そして、
そういったことを実現しようを思わなければ、基本的人権はおろそかにされるだろう。しかしそれは人々自身が決めることであって、
国家が決めることでもない。おろそかにされればそれまでのことである。現在の日本において、自由は権利を保持するために”
国民の不断の努力”がどれほど行われているかは私にはわからない。”国民の不断の努力”が行われないために、
基本的人権が保証されず行使もできない人々が存在する可能性はある。
すべての人々が当然持っているはずの基本的人権を行使できるようになる世の中になるかどうかも私にはわからない。私の”不断の努力”
はたぶん足りない。


後半の文章は、権利行使の境界線について”公共の福祉”という言葉で規定している。しかも”常に”という文言が付いており、”
責任を負う”ことになっている。権利の濫用を戒めているわけだから非常に厳格は条文である。
そこまで言われる筋合いはないように思うけれども、基本的人権の持続性の危うさを考えると仕方がないのかもしれない。


私が日本国憲法の条文を知ったのは小学校の高学年の頃で、学研の学習百科大事典の第5巻政治・経済・社会(発行は昭和51年)
を通じてである。内容は理解できなかった。その時に”公共の福祉”という言葉を知ったのであるが、
当然のことながらまったく理解できなかった。小学生にはあまりにも難しい言葉であり概念であり、”公共の福祉”
の実体についての理解は中学生以降となる。この時から今現在まで”公共の福祉”とは何かということを考えているわけであるが、
そう理解が広がっているわけではない。どこで境界線を引くべきかは非常に揺れている。
もちろんこういうことはいい大人が言うべきではないことはわかっている。


最近は権利行使を妨げる発言が多い。権利ばかり主張して義務を果たさない、とか。
政治家や私の親の世代の人たちからよく聞く言葉である。最近は若い人たちも使うのだろうか。しかしこうした発言は、
どこで権利行使の境界線を引くかの基準がよくわからない。さらには権利行使の話が道徳や倫理の話になっている場合が多い。
また憲法のある条項に”公の秩序”なる文言を挿入し権利行使を制限しようとする動きがあるが、そうしたことは下位法で行うべきであり、
さらには判例によってなすべきである。正当な権利行使を過大に制限しようとする試みに権威主義のにおいを私は感じる。



フランスの人権宣言
には



4条

自由は、他人を害することのないもの全てを、なし得ることに存する。

たとえば、各人の自然権の行使は、それが社会の他の構成員に、これらと同じ権利の享有を確保すること以外の限界を持たない。


これらの限界は、法律によって定めることができるに過ぎない。



5条

法律は、社会に有害な行為を禁ずる権利を有するに過ぎない。

法律によって禁じられていない全てのことは、妨げられることはできない。また、(法律によって)
命じていないことを行うことを強制されることはない。



という条項がある(訳は第18法律研究所(近畿大学大学院)
<より引用)。これにより私は”公共の福祉”というのは他人に害をなさないこと、
そして社会に有害な行為をなさないこと、であると理解している。、ただし何が害、あるいは有害かという線引きが必要になる。
この線引きが本来的に決められるかどうかはよくわかっていないし、
それを法律で決めることが自然権という基本的人権の性質に反しているように思うけれでも、ではどうすればよいか、
と問われれば答えに窮する。これはミル以来の自由主義における他者危害の原則に沿う理解の仕方だと思っているし、
苦労はするがある程度まで線引きは可能であるけれども、倫理と人権概念の、あるいは法との混同を招いてしまうことが難点である。
つまり私も先に挙げた人たちと同じ穴のムジナになることになる。人権を自由主義を用いて理解することしか今の私にはできないし、
これ以外のよい方法を見つけることもできない。


 




 


他者の存在を無視しないことが基本的人権を持続するために必要であると思う。
そして他者の存在を思うことが正義にかなう権利行使に繋がると思う。他者に対する尊敬と寛容が人権概念の中核にあると私は思っている。
そして人権概念が権威主義に対抗しうる有力な思想であると考えている。

posted by mirrornowhere at 11:25| ラスベガス 晴れ| Comment(6) | TrackBack(0) | 逐条点検 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月28日

極私的逐条点検:憲法第十一条〜基本的人権の基本


第三章 国民の権利及び義務


第十一条  国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、
侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。



この条項は特定の権利についてではなく、基本的人権の原則について規定している。基本的人権は、
人が生まれながらにして持っているもので、決して誰からも奪われることはなく、誰かに譲渡することもできないし、消滅することもないし、
不可侵である。


基本的人権を権力の恣意的な干渉から守るためには、すべての基本的人権が認められなくてはならないし、
未来永劫保障されなければならないし、あとから生まれる人すべてに与えられなければならない。そうでなければ、
この権利はいいがあの権利はだめということが起こる。期限付きの権利など人権の名に値しない。人権が先取権では、
あとに生まれる人は不利になる。


基本的人権が保障されていなければ、国民の主権行使を妨げることになる。基本的人権は、
国民主権と民主主義の実現のために絶対不可欠の要素である。


 




 


日本は人種差別撤廃条約を批准しているので、基本的人権は国際人権法に従って国民だけでなく、外国人も享受できる。

posted by mirrornowhere at 13:54| ラスベガス 晴れ| Comment(7) | TrackBack(0) | 逐条点検 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月27日

極私的逐条点検:憲法第十条〜日本国民って誰?


第三章 国民の権利及び義務


第十条  日本国民たる要件は、法律でこれを定める。



日本国民が誰なのか、憲法からはわからない。下位法で規定することは柔軟性が保ててよいと思う。しかし、
実際にはかなり硬直しているだろう。原産主義な人は憲法で規定したいと思うかもしれない。”日本国民は(原産)日本人である”
というようにである。ここまで閉鎖的だと多くの人に賛同されるか疑問だけれども、危うい状況は起こりうるかもしれない。


国籍については国家が決める権限があるのは当然であるけれども、憲法に明記しておくのがよいのかもしれない。ただ、
国籍は剥奪されない、というような条項を加えるのがよいと思う。


日本は人種差別撤廃条約を批准しているので、参政権のような国籍を要件とする権利を除けば、
国籍に関係なく誰にでも権利は保障される。




法律というのはたぶん国籍法である。その第一条には「日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる。
と書いてある。


日本は血統主義を採っている。出生地主義への転換は日本が移民を受け入れる時に議題にされるだろう。
最近は原産主義が強くなっているように感じるので、たぶんそんな時は来ないと思う。


日本国籍の取得は一見簡単に見えるが実際はそうでもない。1985年以前は母親が日本国籍でも父親が日本国籍でない場合、
その子は日本国籍が取得できなかった。女性差別撤廃条約を批准した1985年の改正によって父母両系制になったので、
母親が日本国籍なら自動的に日本国籍が取得できるようになった。20年前までは厳しかったのである。今でも簡単なわけではない。
父親が日本国籍で母親が外国籍の場合、結婚していなければ修正後に認知されてもその子どもは日本国籍を取得できない。この場合について

東京地裁で違憲判決が出た
。基本的人権は個人が享受するものであることを考えると、
どちらかの親が日本国籍であるならばその子どもは例外なく日本国籍が取得できるようにすべきである。

posted by mirrornowhere at 11:15| ラスベガス 晴れ| Comment(13) | TrackBack(0) | 逐条点検 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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